記憶について随分考えている

昔の記憶の中で旅をすることもできるし

思い出の中で感じた感情に浸ることもできるし

思い出したくないのに、悲しみがこみ上げて

涙が止まらなくなったりする記憶を

今思い出しても涙は出なかったりする

一体、この自分の記憶すら不確定な部分が多くて

 

人を失うと、感情は五段階くらいで変化するそうです

はじめは、何も感じなかったり、

それから悲しくなったり、怒ったり、受け入れたりします

戻ったり、進んだり、するのかな。

 

ノルシュテインについて調べていたことも大きいのかな

詩的なものを作りたいなあと思います

 

ヒューヒュー

久しぶりに発作が起きる前兆がして、

やることを早めに終わらさせていただいて、

帰ってきた。

もう慣れっこだけれど、

突然来るから驚いてしまった。

お医者さんに言わせると、

脳の伝達物質が滞っているらしいのだけれど、

それはストレスが大きく影響するっていうけれど、

今日みたいに何の気なしにもきたりするのだから

困ったものだ。

薬を飲んでおとなしくしています。

海馬に影響があるような気がするから、

本当はあんまり飲みたくない。

ひい、ヒューヒューするよ。

はじめ、なった時は驚いて、

とても苦痛だったけれど、

うまく付き合っていかねばね。

不安や絶望を抱えている時でなくてよかった。

明日には治りそう。

七色の思い

生きている間、人と沢山巡り会います

巡り合っては消えていく縁もあれば

一生自分のこころに残り続ける縁もあります

せめて、生きているのなら

切ることは、とても滑稽なことだと思うのです

人が、人と巡り合って、

お互いを思った瞬間のみ成立する、かけがえのないもの

もう昔の話であっても、わたしのこころにあり続けるもの...

何度でも、やり直しはきくかもしれない

きかなくても、いいのですが

今日、一歩踏み出せた気がします

とても、勇気のいることで、

不安定なことに対して。

限界までしないこと

あのね、大人になるって、

自分の限界までやらないこと、だと思うのです。

限界まで行ってしまうと、人は壊れます。

でも正しいことではないとも思います。

大人になるって。

 

病気をしてからというものの、

元どおりの生活を望んでいましたが、

ああ、それは多分もう無理なのだなあ、と思います。

すごく神経が敏感になって、

些細なことでも体がついていかなくなってしまいます。

 

わたしは、いままで自分のことを、

熱血行動派と自負していました。

やりたいことはなんでもやってきたし、

胸を張れる経験も多いです。

...人一倍胸を張れない経験も多いけれど。

 

病に倒れるまで、考えてみたら、

1年前から体がおかしくなっていたんです。

1年前からお腹を下していて、

半年前には、手足の痺れと震えが続いていました。

それからどんどん体がおかしくなっていって、

気がついた時には、布団から体を起こすことが出来なくなっていました。

 

きちんと生活をおくることができるようになって、

1年経ちましたが、

もう前の自分には戻れないのだなあ、と、

少し情けなく思います。

 

つくづく、上を見ては、

自分の器の小ささに対して、

恥ずかしく思います。

 

でも、それを、

少しずつ受け入れています。

乗り越えない

出会うひと出会うひと、素敵な人たちばかりが多くて、

こういう人たちに共通することって何なのだろう、

自分が好きなひとたちは、過去に壮絶な痛みを経験し、

それを乗り越えている人なんだなって考えていたのですが

いや、乗り越えてないなって思いました。

乗り越えることができるものではないのだ、と。

思い出す頻度が少なくなったとしても、

あらゆる分岐点で思い返し、

その記憶は変容していき、

きっと一生抱えていくのだ、と。

自分の確たるものとして受け止めているのではなく、

それに対する自分の気持ちは流動的なものなのでしょう。

 

しかし、懸命に、何度めげても、

自分が生きることに対して、

諦めても、また復活し続ける。

乗り越えることって重要じゃないですね。

 

一人で飲みに行って、

その日限り、誰か知らない人と話すことが好きです。

何か不思議な力が働く気がします。

求めているものがフッと来たりするからです。

もう一生会わない相手かもしれないとなると

あらゆることを話せるからかもしれません。

 

誰もが、誇りに思う部分もあり、

抱えているものがあり、

それでもその記憶は大切にとっておけるような、

そういう人になるためには、

ああ、今日も生ききったと、

自分に労いの言葉をかけてあげられるくらい、、、

 

私たちの誰もが壊れている。ある点においては誰しもが、とりわけ青年期には、修復できないほどに壊れていると感じていて、みな癒しを必要としている。『キャッチャー』はその癒しを与えてくれるのだ、ただし、かすかに、である。どのようにしてあたえられたかさえに気づかないーー結末に至って、十分に気持ちは高まるのだが、癒しが与えられたとは気づきもしない。ただ、言葉では言い表せないどこか深いレベルで、自分が治癒されたことが感じられるのだ。

 

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ああ、そうです、

それだったらまだ自分は十分安心が出来て、

このどうしようもない自分と

共に歩めるだけの愛着を持ちながら、

生きていくことができます。

 

オバカ

年始になって急激に体調が悪くなりまして

何もできず、ずっと暗いままで

「親より先に死ぬな」と母に言われました。

あんな顔、初めてみた。。。

 

あの、バカみたいな話なのですが、

この日記を自分で読んでてチョット元気が出ました。

 

 

思いの外、誰かを失うということは
悲しくて、胸がずっと痛くて、
どうしても前向きになれず、
そもそもどうして前向きにならねばいけないのかと
逆ギレしてしまうほどに、
穏やかに、穏やかに、
悲しみが、降り積もって、
どうにもならないのです
積もれば積もるほど、
動けなくなって、
いっそのこともう溺れてしまいたいのです
 
いつの日か、
気がついたら受け入れることができると言われますが
まったくその気配はありません
 
この気持ちを忘れたくもないのです
彼女のことを忘れたくないのです
だから、きっと、わたしはこのままです
 
もう弱音もはいてはいけないとわかっているけれど
いつまでも続く胸の痛みが、そうさせてくれません
 
でも、きっと、今より明日が良くなると信じて、
信じて、信じて、信じて…