疎さ

わたしは、ファッションと音楽に疎いです。

ファッションは、本当にただ興味がないのです。

何故か良く分かりませんが、周りの人の興味を占めている割合と随分違います。

 

音楽は、人に影響を与える力は一番大きいものだと思っていて、

わたしは数分で気分を下げたり上げたりできる、音楽に対して、少し怖いと思ってしまいます。

わたしは、幾度か音楽に支配されている自分を感じたことがあります。

音楽の効果や、アーティストの世界に触れた時、

溺れてしまって、戻ってこれなくなるのではと、いつも思います。

慣れるために一人で静かめのライブに行ったりもするのですが。

どんなアーティストでも、音楽が始まった途端、

受け取り手を日常から引き剥がします。

それが心地よく、喜びであることも知っているのですが、

人よりいろんなものを勝手に受信してしまうので、

劇薬であり、脅威にも感じます。

でもなァ、わたし、音楽も知らないとダメなんじゃないの...?

化粧鏡に映る

わたしの家には全身鏡がありません

フト先日、遠くの化粧鏡に映った自分の太ももを見て、

叫び声が出そうになりました

立派!

 

キャベツの千切りと豆腐、卵を混ぜて焼いたらとっても美味しかったです

ここ一週間はせめて、少し食事を減らそう

重すぎて体が大変です

いかん、いかん。

母のこと

「人は変わる」

母の口癖です

年を重ねるにつれて、友人も、父も、とても素敵な人になっていったと言います。

だから、今たとえ気が合わなかったとしても、

いつかは気が合うようになったりする、ということをよく言います。

 

母は、本が、映画が、音楽が好きです。

料理は苦手で、家事も苦手だけれど、洗濯だけは

毎朝必ずします。

新聞を読むことを日課としていて、それが毎日の楽しみだと言います。

家事の合間や食事の後に、新聞を読んでいる母の姿が好きです。

あらゆることを考えていて、それに対しての自分の意見があります。

人の話しを良く聞いて、共感能力が高く、

涙もろく、愛情深い人です。

その愛情を多く向けられているのが、自分や姉であることを知ったのは

ごく最近です。

母は、腰が低く人が良いので、すぐ疲れます。

わたしが帰ってくると知った時にとても生き生きすると

叔母が教えてくれました。

そんな時に、どうしても、

戻らない過去を後悔したりします。

愛を享受できていても、認知できていなければ

いつまでも荒んだままだったからです。

不必要なことがないように、今まで行き着くには

ここまでの過程は無駄ではないのだけれど。

 

私が知らない、母の知っていることが沢山あるように、

逆もまた然りで、私が母に何か話す時、

何か素晴らしいものを共有できたときの母の目は

とてもキラキラするのですが

この時は永遠であっても、いつか別れてしまうことが分かっているから、

涙が出そうになります。

私の記憶について話したとき、

「まるで自分の記憶のもののように感じる」

と母が言ったことがあります。

とても日本的で受動的な考え方だけれど、

そう言ってくれる人は恐らく母しかいないと思いますし

そんな存在がわたしにいることが喜びだなあと思います。

 

夜更けに

夜は寝たほうがいいですね

明日起きられないから寝ないけれど、笑

朝早く目覚めて行動するととても気分がいいのにね

家に引きこもって布団でジッとしているよりね

 

自分とは全然関係ありませんが

北杜夫氏が躁鬱病にかかったとき

鬱症状が出たら薬飲んで布団でジッとしてれば

大抵おさまるって書いていて

苦しさとか何も表現しないんです

サラッと書いてあるだけで

あとは面白く日常を描くから

すごいなあと、そんなことを思い出す夜更けです

ああ、寝てしまいそうです

朝起きれば

今日は映画理論基礎の試験があるのだけれど

特にロクに勉強しないで寝た。

昨年の前期は、授業が終わるたび、

一週間に一度は必ず復習をしていたので、

記憶に対して不安があったのだけれども、

そこまで差異がないような気がして、

時間って尚更どうやって使っていいのか分からなくなりました。笑

 

夜、決まった時間に寝て、

朝起きると気持ちが良いですね。

昨日ね、夜ようやく少し思えたことがあります。

”わたしは過去の記憶に生きていて、そこに埋もれて今を生きられてないなあ”

いつもいつも、思い出しては耽っているのは、

過去の名声から離れられない人たちのようかな。

 

ああ、生きるって、恥ずかしいですね。笑

決断とかそういった類のもの

どんな風に見られても仕方がないと思っている

 

また生みの苦しみを味わうことになるのだけれど

わたしのやりたいことは現時点でそれしかなくて

 

でも、でも、

生の喜びを表現できたらと思う

どんなことがあっても表現することにおいては

どんなものであっても構わないはずだから

苦しみ一色であっても、

喜び一色であっても、

何を写したってそれはわたしの中のものだもの

 

きっと一生恋しくなって、

泣いたり、苦しんだりするんだろうな

それがわかっているし、それでいいと思っている

 

だってあなたに会えて本当によかったもの

わたしの人生の中のとても大きな存在だもの

今までも、これからも

 

思い出は美化しがちだけれど

一緒に過ごした瞬間にもとても美しい日々だと思っていた

 

ここにはきれいごとしか書いていないけれど

わたしが懸命に美しく生きようとした証でもあるのだ

 

ああ、あなたは、

元気だろうか、落ち込んでないだろうか、

幸せだろうか、どこかにいるのだろうか、、、

わたしが今もこうして思っていることを、迷惑に思っていないだろうか、、、

記憶について随分考えている

昔の記憶の中で旅をすることもできるし

思い出の中で感じた感情に浸ることもできるし

思い出したくないのに、悲しみがこみ上げて

涙が止まらなくなったりする記憶を

今思い出しても涙は出なかったりする

一体、この自分の記憶すら不確定な部分が多くて

 

人を失うと、感情は五段階くらいで変化するそうです

はじめは、何も感じなかったり、

それから悲しくなったり、怒ったり、受け入れたりします

戻ったり、進んだり、するのかな。

 

ノルシュテインについて調べていたことも大きいのかな

詩的なものを作りたいなあと思います