また一歩進む

不眠症が酷く、約半年ほど続いたので、

今日思い切って、病院に行きました。

精神科や心療内科って、本当に当たり外れが多くて

良いお医者さんとめぐり合うことだけでも大変なことなのです。

いままで4人の主治医がいたけれど、そのうちの2人は、

きちんと自分の頭で正常に考えられるようになっても

頭がおかしい人で酷い言われようを受けたなあと思うからです。

いままでの診断は、概ね間違っていると思います。

なぜならば、原因となることのほとんどを言っていなかったから。

でも、今日初めて行ったところで話しました。

すごく良い先生にあたった...

多分いままでの診断はほぼ間違っているね、と言われ。

そんな薬飲んでたの?それは辛かったね、

そしてよくなるために頑張ろうねって、

すぐカウンセリングの先生紹介してくれた。

愛情深い先生。

何にもできずにただ布団の中にいる時間が多いのだけれど。

それでも少しずつ、頑張ります。

今日診察のときに泣いてしまった。

どうして泣いているのか、教えてって言われ、思わず、

生きていることが嬉しいのです、と答えてしまった。

 

なんなんなん...

ずっと昔、嫌な人にしか会っていない時がありました。

慕っていた人から、道端の人から、好きな人から、仕事関係の人から、

一体どうしてあれだけのことがあったのか、よく分かりません。

とても酷いものでした。

 

でも、いま、好きな人、良い人にしか会わないのです。

それが最近のことではなく、一年くらい。

いろんな人と出会って、なんて素敵な人なんだ、と思いっぱなし。

それは、大学でもそうだし、他でもそうだし、

学歴や地位やお金なんか関係なく(そしてこれは重要なことだと思っていた時期もあるけれど、表面的なもの以外の何の効力も持たないと気づいたし)、誰もにそう思います。

 

わたしの思考が変わったからって思うかもしれないけれど、

それもあるけれど、精神的にも身体的にも脅かす人が、本当にいなくて。

こんなに暖かくて素敵な人たちとずっと一緒にいたいなあと思います。

許すということ わたし自身の言葉で

許すということ。

許せないことに許せない自分を許した、あの時から少したちました。

そうして、わたしは今日ある人に許されました。

 

愛は語るものではないと

敬愛する多くの先人たちは言います。

愛するということは凡そ言葉に完璧に表すことはできないということだと

しかし、今日愛することと許すことは似ているな、と思いました。

 

2017.02.13.

今日は皮膚科に行った。

一度、お子さん連れに席を譲ったら、

病院から出たのに戻ってきてありがとうございますと言われた。

もう一人、こどもが座りたくてぐずっていて、

お母さんと一緒に座れない席だったから、

周りの人に頼んで、一番端の席を空けてもらった。

病院にきているくらい辛いのだから、

泣きたくなるよね、とおもいつつ。

お医者様も受付の方も、丁寧な人。

薬剤師さんも丁寧な人だった。

 

そして何だか、美しい世界にいるなあ、と思って、泣きそうになった。

 

よく、わたしのしていることは特に男性から見ると

偽善に思うらしい。

何度も何度も言われ、事実何が善か偽善かわからない。

ただ、一つだけ、わたしは自分の利益のためとは全く思っていない。

しかし、いつも自分の行動は偽善なのではないかと最後に考えてしまう。

思い当たるとすれば、

些細な時、自分が困っていた時に先のようなわたしの思いを

思い出して、微笑んで欲しいとは思っている。

 

昨日のわたし

そうなのです

わたしが一番に愛すべきはわたし自身です

 

今が辛ければ、

過去の堪え難い経験を思い出せば良い

山を登ってきた

ほら、振り返ればもうこんなにも遠くにいる

降りるのはやめよう

足元を見返して

ああ、ちゃんとここにいるのではないか

 

見た目や肩書きに騙されてはいけない

目に見えないものを感じなくては

一色単にされるのが嫌いです

”この人はこういう人だ”なんて決め付けるのは

とても愚かしいことです

しかし、過去のわたしの仲間であったはずの見た目の人には

もう受け入れられることはないのです

わたしのことはわたししか知らないのです

わたしの思いは

 

どんなに周りからどう思われていようとも

今まで生きてきて、これからもいきるであろう

わたしの人生を誇りに思っているのです

 

先人たちがいるということはとても救いになります

迷った時、行くべき道を照らしてくれるから

 

わたしは選びとってこの道にいます

そして、今後も

 

過去の自分を抱きしめてあげたい

未来の自分に抱きしめられたい

 

わたしは、わたしのままでいいのです

漠然たる...

この一年、頑張ってなんとか乗り越えてきましたが、

精神状態はいつも追い詰められており、

わたしという存在が明らかになり、

というのも、わたしにはなにもないということが分かったのです。

わたしは自分で仕事ができる人間だと思っていたし、

行動力やフットワークの軽さでは負ける気がしませんでした。

しかし、それは技術がないことを口先だけでカバーしていて

人に向けて自分を演出するということだけである、

これ以上でもこれ以下でもありません。

自分は思っていたよりとてもカッコ悪いことに気づいたのです。

わたしにはなにもありませんでした。

ただ、一つ誇ることができるのは、艱難の末に、それでも生きているというただそれだけのことです。

 

急に襲ってくる、自分ではどうしようもない痛みを、

きっといつまでも背負っていくのだろうと思います。

これがなかったら、と思いますが、

今までの行いから考えれば当然です。

大人になることは、無理をしないことなのかも、と前に書きましたが、

何かを抱え生きて行くのが大人かもしれません。

抱えていない人なんて、いませんものね。

 

わたしにとっては、自分が幸福を感じたとき、

それが一人のときに、とてつもない苦しみも感じます。

やはり未だに自分を受け入れられていないこと、

過去の中に生きていること、

幸福に伴う、責任と、恒久的でないということへの理解...

 

表面上のことではなく、中の普遍的なものに対してもっと考えなければと思います。