2018/02/11 ちょっと昔のはなし

「なんか今日いつもよりシャッキリした顔だね」

と、少し前に友達が言った。

編入試験を経て入った大学の元同年代で(わたしはその後休学した)

わたしが知る限り最も才能がある、思慮深く素敵な女性であり、

そんな彼女とこうして遊びに行けるようになったことが信じられないといつも思っている。

 

その子によると、わたしはいつもニヤニヤしていたらしい。

そういえば、と思う。

ここ数年間はうまく笑えず、顔が引きつって痛かった。

それは大切な友人が失踪して、自分のことがずっと苦しくて仕方がなかったので

そりゃうまく笑えるわけがない。

そして、もう親しい人を作らないと決めていたので、

なるべく近づきたくない人間になろうとも思っていた。

 

思うのは、

今でも彼女のことはとても大切な存在であり

わたしなんかと一時でも人生の中で出会ってくれただけで

言葉にならないほどの感謝をしているということだ。

わたしに色んな感情をくれてありがとうと思う。

苦しかったのは、彼女といた時の自分の全ての至らなさであって

彼女自身のことではない。

折角会えたのに、こんな自分で本当に申し訳なかった。

申し訳ないとか書いておきながらも、

過去に素晴らしい女性と出会ったことだったり、

そんな人を心底敬愛したことや、楽しかったことを思い出すと、

心が幸せでいっぱいになる。

今の自分がこれ以上幸せな気持ちになることは自分が許さないけれど、

過去の記憶から掘り起こすことは大丈夫みたい。

彼女のことを思うと出る涙は、今は嬉しいという感情が支配している。

 

 

なぜかわからないけれど、笑えなくても笑っていようとしていた。

 

でも、鏡で見た、わたしの最高に引きつった笑いは、

やっぱりニヤニヤしていて気持ちが悪かった。

 

 

もう無理やり笑うのをやめようと思った。

笑いたくない時になんて笑わなくていいよね。

誰もそれが満面の笑みなんて思わないもの。

2018/02/09

復学するか、休学を続行するかの選択をする日がもうまもなくだ。

父も母も復学を望んでいて、でも大切なのはわたしの意思だと言う。

わたしは何をしたいのかわからない。そういう病気になってしまったので。

でもすこしずつ回復していると思う。

半年間でだいぶ変わった。

薬を飲みすぎることも、自分を物理的に傷つけることも、

人に頼んで精神的に傷つくことも、今はしなくなった。

できることがもっと増えてきた。

包丁を握って料理ができるようになった。

ゴミ出しの日を間違えることにビクビクしたり、

悪夢でパニックになることもなくなった。

 

自分をコントロールできなくて苦しんだけれど、

希望を持つことを諦めたら、代わりにあんまし絶望もしなくなった。

わたしにとっては自分を受け入れたということなのかもしれない。

 

よく恵まれていると言われる。

そんなこと分かっている。

でも、すこしでもいいのでわたしに内在する狂気を体験してほしい。

自分すら、全てのことを把握できる人間なんていないのに。

わたしは誰かにあなたは恵まれているなんて言わない。

 

なんて、思ったりするけど

 

生きずらいのは、自分のために生きようとするからだ。

 

もしもっと良くなるのならば、わたしはまだ休みたいのかもしれない。

2018/02/07

「どうしてそんなに着飾っているの?」

と19歳の時に聞かれたことがある。

わたしはそんなつもりはなかったので、驚いたのだけれど

今までを振り返ると、何にも中身がない、取り繕い人間だと思う。

 

仮面浪人をしていたころのこと、初めて勉強が楽しいと分かり

そして自分の無知さを恥じ、

大学に合格してからは、自分の圧倒的レベルの低さを感じ

図書館に通い詰め、1年間で約100冊の本を買った。

もちろん読み切れてはいない。

 

今のわたしの部屋には、その本が並んである。

本棚の背表紙を見ると落ち着く。

そんなわたしは、ずっと取り繕いをし続けているのだと思う。

 

いつしか、自分の存在を恥じずにいられることができるのだろうか。

 

2018/02/06

ドキュメンタリーを見た。

40年に渡って精神病院に隔離されていた人が、原発事故を理由に外に出られるようになった日々を追うものだった。

その人は、自分と比べるものではないのだけれど、わたしよりよっぽどまともで、真面目で、冷静なように見えた。

 

逃れられない非情な運命を生きてきただろうけれど、最後にその人は、「家族を持ちたい。希望を持たなきゃやっていけない。」と話していた。

 

以前の日記に、わたしの中に希望を見出したいと書いたけれど、希望を生める人は強いと思った。

 

 

別に格段何かを成し遂げたいという意思もなく、自分が特別だとも思っていないけれど、性的暴行を何度も受け、もう自分が醜くなって、自分の幸せすら憎く感じるようになってしまったし、人に沢山ひどいことをしたし、セクシャルマイノリティーだし、病気でたまに自分自身のことですら混乱してしまうことがあるけれど

 

でもこれが自分だとなんとなく思えるようになった

誰だってハンデはあるし、ようやくこんなつまらないことで今後の自分の人生を潰すわけにはいかない

自分を罰したくてしていた傷あとにいつしか依存していて、消えることが恐ろしかったけれど、べそべそこんなことで泣いてるようじゃダメなのでもう泣かないように心がける

 

誰にも求められてなくても、わたしはわたしのできることをやればいいし、わたしにしか出来ないことをやればいい、目下わたしにしか出来ないことを見つけた

 

昔は荒れ果てていた姉はいつしか妹にボーナスが入るたび大金を口座に振り込むようになった。

彼女を見て自分の足で、自分の力だけで、また歩けるようになりたいと思った。

 

雪解け

雪解けの音が気持ちいいと感じた

 

いつまで意地になって

ふさぎ込んでいるのだろうか、わたし

 

周りには沢山の素晴らしい人がいて

いつも美しくあろうと、賢くあろうと、

必死で生きている人がいて

 

そうだ〜、

暗く生きるのが簡単なように

醜く生きるのも、美しく生きるより楽なんだ

 

わたしの今の生き方、醜いな

昔は醜いなりに美しく生きたいと思ったけれど

今は醜さの塊だな

気づいた

 

いつも思ってた

こどもに胸を張れる大人になれるように

また頑張れるかもしれない

 

 

2018/01/23

できなくなったことばかりで、まだ頭がおかしくなりそうになる時がある。

でも段々できることも増えていっている。

 

覚醒亢進症状が酷くて、昨日は知人とご飯に行ったが、隣の人の声でずっと放心状態になってしまった。

せっかく来てくれたのに、申し訳ないことをしてしまった。

病気(しかも可視化できなさそうなやつ)になって色々問題も起こしてきたので、距離を置かれてしまった人も何人かいる。そしてそのことは病気だけのせいではないということも分かっている。

仕方のないことだと思っているけれど、あんまり自由のきかない、というか、いつ気がふれて何かしでかさないか不安な自分を抱えると、わりと虚しいものがある。

 

でも、病気になってよかったと思う。なぜならば、3年前くらいのツイッターのつぶやきを見返したが、こんなに嫌な奴とは絶対に友達になりたくないと思ったからである。

たまに思う

尊敬する人は、今までに起きたことの全てが無駄ではないと言うけれど

もしわたしが少しでも芝居をしなかったら、

もしわたしが少しでも疑うことをしていたら、

もしわたしが私利私欲にまみれた人たちが

世界の全てだと思い込まなかったら、

そしてそれに順応しようとしなかったら、

自分のことを憎まなかったと

思わずにはいられない。

もう何年も、物凄い喪失感と無気力感でいっぱいで

そこから抜け出せないように思う。

美しいところは消え去って

醜さのかたまりになっているわたしは

醜い言葉しか口から出ない。

すっかりおかしくなってしまった。

でも自分が頑張らなければここから出られないので

また今日も生きるだけ生きる。