2018/07/09 乗り切った

いつも6月に体調が最悪になるのだけれど、今年はそうなることを予測してあらかじめ対策を練っていた。

一人にならないこと。自分が会いたい人に会ってそばにいること。たくさん映画や本を見て、音楽を聞くこと。自分が嫌なことはしないこと。

 

功を奏し、大丈夫だった。身体はダウンしたけれど、心はずっとわたしのままだった。

 

昨日はずっと寝ていた。やることがあったのだけれど諸事情でできなかった。onoffを極端につけるので充電する時間が必要だからひたすら休んだ。

 

さ、今日も一日頑張ろう!

 

*追記

 

SNSでは大抵弁護士や大学の教授をフォローしている。あとは性犯罪に関するものや、社会問題に関する発信をしている報道局やジャーナリストなど。

そういう人たちが口を揃えて発信していることは「暴言を言う前にきちんと調べて欲しい」。

 

例えば痴漢の問題は世界からしたら異常なほど日本では冤罪だと叩かれる。でも日本で加害者支援の第一人者のかた(男性)は、冤罪はほとんどないと言いきってらした。

もし、わたしが男性、中でも保守的で性別差について考えてきていないような人だったら。

万が一自分が誤って女性に触れてしまった場合、冤罪になることを恐れるあまり、活動家を叩いてしまっていたかもしれない。

でもよく考えてみると、そんなのおかしいよ。おかしい。

 

電車には30分以上一定のところにいないようにしている。

この間実家に帰ったとき、一個席が離れている酔っ払った男性が、頭をわたしの膝の上にのせてきた。すぐ席を離れた。意識はなかったから何も言わなかったけれど、周りの人、誰も助けてくれなかった。

 

こうやって女性に生まれてきたというだけで、日々意識していないところで人間としての尊厳を削られるのだと思う。

今の話しはわたしの話しで、男性に生まれてきただけで削られていく尊厳ももちろんある。

 

争いたくないし、傷つけあいたくもないな。

かけていたり優れている部分が人によって違うのなら、おぎないあいたいよ。

2018/07/06 神社にて

特にどの神様を信仰しているとかはないのだけれど、リフレッシュのためによく近所の神社に行く。

この間行ったら、たまたま限定でさらに奥に行けた。

小さな山になっていて、わたしの後ろには小さなこどもと老夫婦と思わしき人がいた。

 

男性は杖をついていて、こどもと手を繋いで登ってきた。

下に降りられそうに見えなかったのでお手伝いさせていただけませんかと言うと、ありがとうとのこと。

小さな可愛い女の子の手をとり、小さな山を降りた。

男性が二回、止まって!と言った。神様がまつられていたのを見逃すところだった。

話しを聞くと、その方はどこかのお坊さんだった。

 

あのときのことを思い出すと、不思議な気分になる。

2018/07/05 振り絞る

昨日お手伝いしている舞台の撮影に行った。

もっとこのかたたちと一緒に過ごしたいと思ったので、公演も手伝わさせて欲しいと申し出た。

さらに一昨日片渕先生の講演会でひどく感激した。

 

これだ

 

生きるということ いま生きているということ

(谷川さんより引用)

 

私たちはありったけの力で生きている。

時に落ち込み、時に怒りを抱えながら

時に救われ、時に勇気をもらい、

時にただ生きていることに泣きそうになる。

 

それは、毎日全力で生きている人にこそ贈られるギフトだ。

 

昨日も全力で生きた。

だから今日も全力で生きる。

生きる。

2018/07/04 現実

わたしのキャラクターはわたしのものだしって思うけれど、やっぱり偏らないように人の話しを聞く必要がある。

それってすんごく難しい。

 

リップサービスというものが本当に苦手。どうして社交辞令をする必要がある?理解できないよ。

 

 

 

自尊心を持つと、逆説的に生きずらさも抱えるのか。

それでも、わたしは、わたしは、現実を見ながら理想を追い続けていたい。

わたしの人生だもの。人にあんまりにも振り回される必要はない。

2018/07/03 年を重ねるということ

何かの機会のたびにgoodwillhuntingとintothewildを何度も見る。

わたしが苦しいときにはいつだって支えになってくれたし、心の傷を癒し、そして踏み出す勇気をくれ、何よりもたくさんのことを考えさせてくれる。

 

以前通っていた大学は本当に好きではなかった。理由は、本当に申し訳ないけれど、あまりにも授業内容と生徒が稚拙過ぎたからだ。出来たばかりの学部ということもあったと思う。

一番わたしを腹立たせたのは、先生たちだ。生徒のことをただの金ヅルとしかみていないかたが多かった。勿論そうでない人もいたけれど、ほんの少数だ。

授業はわたし一人で勉強できるくらいのもの。本の丸写し。酷い時は、はじめ、90分間Wi-Fiの接続の仕方を教えてくれたこともある。そしてその先生の言葉が聞こえないくらい喋り続ける生徒。ここは幼稚園かと思った。でもわたしもそこにいるということは、同類ということだ。それがわかっていた。

一年間授業を受けたけれど、もうここにはいられなかった。ここは大学ではない。

 

元々大学に行く気はさらさらなかった。当時大学というものは、難関大学以外は何にも考えずに将来の目標が定まらずダラダラしたい人が行くものだと思っていた。

芝居の道は諦めてしまったけれど、メイクと特殊メイクが得意だったので、そういう専門学校に行くため、そしてその学校が本当にちゃんとしているかを見定めるために多いところで8回ぐらい見学に行った。

父に大学に行けと言われた。今ならその意味が理解できるけれど、荒れ果てた心しか持っていなかったわたしはとても反発した。それでも、最初で最後の親孝行だと思って、前の大学に入った。

映画を専門的に学ぶところだったけれど、わたしの知る限り、わたしより映画に詳しいような人は3人くらいしかいなかった。映画の話をするとみんな嫌がる。授業で先生がある映画を見たかという挙手制の質問で手を挙げたのはわたしたった一人だけ。「それでも夜は明ける」という有名な映画だ。

どうして?なんのためにここにいるのか疑問と同時に怒りを覚えた。いま思えば、そこがわたしに合っていなかったという言葉で済むことだと思う。

そして何よりわたし自身が未熟だった。そこにいる人を見下した。勿論友達なんてほとんど出来なかった。だから今連絡を取り続けている人は同年代で2人、先輩で2人だけだ。

 

二年生に上がる前に、退学して予備校に入って、もっとアカデミックな大学に入りたいと両親に伝えた。その頃半年間家出同然でシェアハウスで暮らしていたので、帰ってくるならいいと言われた。シェアハウスで気の合う友人と出会い、二人で暮らす約束は数年後の約束になった。そしてわたしが予備校で勉強している間に彼女は失踪した。

 

話しを戻す。二年生は休学して予備校に通っていた。休学費用は年間で50万、予備校代はもっと凄まじくかかっただろう。途中で倒れ通えなくなったので詳しいことはわからない。父が退学を許さなかった。わたしのことを考えて。それにも腹が立った。

ちなみに今の大学での休学費用は年間で12万だ。(元々はもっと取っていたらしいがある生徒の申し出により安くなったらしい)

 

わたしが今の大学に入ったとき、前の大学の理事長は何億か私的に使いまくって捕まった。それから少しずつ改革が始まり、いまでは良くなっているらしい。友人曰く、「先生たちが甲冑を着て戦っている」とのこと。

 

あの頃、あの大学にいた時間は無駄だと思っていた。でも、わたしが勉強を楽しいと思ったのは予備校に入ったおかげだ。予備校に入らさせてくれたのは前の大学のおかげだ。そしてわたしより映画に詳しい3人に出会えて、映画にもっとのめり込んだ。名目上は電車で通うことの無意味さで家を出た先には素晴らしい人たちが待っていた。

なんにも無駄ではなかった。あ、でもお金は無駄だったかも。

 

もっと賢くなりたい。そして人に怒りをぶつけない優しくて強い人になりたい。何からも逃げず、真っ正面から向き合う人になりたい。

わたしは沢山もらいすぎた。

だから今度はわたしがあげる人になりたい。優しさや、暖かさを。

2018/07/02 セラピスト

PTSDという名前に固執している訳ではないけれど、どの本にも”カウンセリングが必要”と書いてあった。

 

カウンセリングを受けようと努力したことがある。3人の臨床心理士のかたにお世話になったが、わたしはどうしてもうまくいかなかった。

臨床心理士という職業は難しい。ほとんど傾聴しかしてはいけないし、それでクライアント(患者)をどうやって治していくのだろうか、わたしにはよくわからない。(自分の考えを述べると洗脳に繋がる恐れがあるのでしてはいけないらしい。)

余談だけれど、「わたしにはあなたをきちんとみてあげられない」と言われたことがある。

 

...そうだ、わたしの苦しみも、わたしの過去も、誰に背負ってもらう訳ではなかった。それはそうした職業の人にとっても負担になるくらい重かったのだ。

当時のわたしはそう思った。そして、”わたしの過去が誰かを傷つけるのならわたしはこのままでいい”と心を閉ざした。

 

それでも、職業としてではなく友人として、勝手にわたしを助けてくれた沢山の人たちがいたから、ここまでこれた。

 

何もかもうまく回り始めて、全てがきっと繋がっていると思った。

わたしの過去はただの過去に過ぎない。その痛みや苦しみは過ぎ去り、残っているのはただ他の記憶についての喜びだけ。

立ち直った。全て。そう思っていた。でも違った。

愛する友人の紹介で、ロシア出身のセラピストに出会った。

彼が気づかせてくれた。

彼はわたしをもっとよくしてくれるかもしれないと思っている。

 

この間公園で会ったとき、こう伝えた。

「わたしにとって誰かにとって当たり前の生活は当たり前ではありません。

上を見上げれば太陽があります。私たちは木陰にいますから、ここからみる太陽はキラキラ光っています。照らされている葉っぱは透けているようにもみえます。

風が吹いています。わたしの髪はなびく。木が揺れている。わたしはそれぞれの木の葉っぱの緑の色の違いがわかります。

太陽の木漏れ日で地面の土の色が変わる。アリが沢山いる。アリがわたしのつま先に登ってきます。

わたしはいまあなたとここにいて、生きています。

そのことを考えると胸がいっぱいになるんです。

わたしは十分すぎるほど傷を負いました。そして他の人を沢山傷つけた。どうしようもなくなってこれだけは約束したことがあります。それは”せめて自分の人生は自分で責任を取ろう”ということです。

 

これ以上、何を望もうというのですか。わたしはいま持っているものだけで十分です。」

 

彼はとても悲しそうな顔をした。

ほとんど無償でやってくれているようなものなのだ。

それからセラピーが始まったけれど、無理をし過ぎて動けなくなってしまった。

彼とは患者という関係ではなく、友人と生徒という関係。

立ち上がれなくなったわたしを彼はきつく抱きしめた。よくわたしは友人に対してハグもチークキスをするけれど、そういうものではないものだった。あんなにきつく抱きしめられたのは生まれてはじめてかもしれない。本当にわたしをよくしてくれようとしているのだと思った。

そして何日か考えた。

 

わたしはもう一歩、踏み出してみようと思う。

自分と向き合うことが残っている。わたしはもっとよくなれる。