2019/01/21 空が美しいと思えればいい

カーテンを開けるのが苦痛だった。

たおれてしまって、ただ走ることだけしかできなかったとき。

布団に寝ていて朝が来て夕暮れになりまっくらになる。

なにも考えられず、カーテン越しの空をぼんやりと見ていた。

ああ、どうしてこんなにも身体が痛いのだろうか

ただ痛いだけのときには朝日すらも目が眩んでへたり込んでしまう。

夜が来ればわたしのこの先のようにまっくらだと思った。

 

たまに立ちあがり、わたし以外の人はこの空の下をきちんと歩いているのだ、と思うと、二進も三進もいかなくなり、また途方に暮れて呆然と窓の外をみる。

 

そんな日々を繰り返すうち、空は朝は白んだ黄色から始まって黄緑ーーー真っ青になり、やがてピンク色になり、真っ赤になったと思ったらあっという間に暗い色になる、と色を見るようになった。

 

もう、それだけでいっか。

綺麗だなあと思えたから、それだけでいいか。

 

そしたら、なぜか自分が背負わなくてもいいものまで背負っていたことがあるのに気がついて、カーテンを開けることに対して勇気がいらなくなった。

 

 

 

両親と同じくらいの歳の韓国語の翻訳の仕事をしている女性とSNSで知り合った。

といっても、随分前で頻繁にやりとりをするわけでもなく、ただ考えが似ているので相手のつぶやきに対していいねするくらいの関係。

去年の10月に、「ようやく抗うつ剤飲まなくて済むようになりました。まさかこの日が来るとは!」と呟いたら、その女性から返信があった。

「わたしもとても長い間、もう生きていることが奇跡なくらいの酷いうつ病でした。」とのことだった。

わたしとは全く違う要素で病気になったらしいのだけれど、彼女のいつもの言動からは信じられなかった。

だって、すごいアクティブなのだ。主婦でこどもも大きくなってから韓国語を勉強して翻訳のお仕事をしているし、まさに好きなことをお仕事にしているような人が、以前はそうだったという。

 

また、できるかなあ、わたしにも。

いまは映画も見たくないし、本も読めなくなってきて、ただ少しずつ生活の立て直しをし始めているのだけれど、脳みそがね、長いことスリープモードでしゃっきりとしない。

記憶を辿って感動するくらい。

 

 

何様かと思われるかもしれないけれど、わたしの言動の裏にはこびりついた自己否定がある。

それを隠すために逆のことを言って見たり、自分をいろんな手段で不必要にいじめて見たりしてきたけれど、最近自分を否定することは周りの人に対する冒涜、とまではいかないけれど、周りにいてくれる人すらも否定することになると思うようになった。

 

周りに比べれば頑張りは絶対的に足りていないけれど。

でも。思い出せばあのとき一緒にいた人たちはなんて素敵な人たちだっただろう。

志があり、その志はけして不純なものではなかった。

そんな尊い人たちまで否定することはしてはならないのだ。