2019/05/18

人種主義・反人種主義の越境と転換というシンポジウムの一日目。

そののちアルバイト。

移動時間に望月さんの本を読む。

電車で座っていたら、隣の女性が眠って何度もわたしの肩、というか膝に頭をもたげてきた。

すみませんくらいあってもいいのでは...という考え方は相互独立的自己観に基づき、もしかしたら過労でヘトヘトで疲れているのかも...というのは相互協力的自己観に基づくな、などとくだらないことを考えた。

気づいたこと、数年前と比べてこうした向こうが意図的でなく自分の精神的・空間的パーソナルスペースの領域がおかされることに抵抗を覚えるようになった。この感覚は今まで欠如していた防衛感覚に必要なものだと思う。

 

少し思い出した。ただの愚痴でしかない。

結婚しこどもを産むことができない代わりに、何らかの社会的活動をすることが今後の目標だと友人に伝えたら、前者と後者で上下関係とみなしたっぽいのでそういう意味じゃない、と訂正した。でも伝わらなかったと思う。

長期的に継続して人が人との繋がりで求める愛や高い幸福値を築くことができている人たちのロールモデルは非常に少ないのに、どうして自分たちの場合のみ当たり前のように特別視し、自分たちだけは違うと言い切れようか。いや、気づいているけれど見ないふりをしているのかな。あの絶対的自信は何なのだろう。

何度も言うけれど他者に向けた普通という言葉、自己が他者に向けた普通という言葉が自己の偏見に基づいて使われるの、本当に大嫌いだ。

普通という言葉の枠組みを決めているのは自己だが、それは意識的に決められるものではないということを考えずに使うのは暴力的だ。

というか普通でないとみなした者に対して、独自性があり変わっていることを評価するようなスタンスを取られても、排他的な人だとしか思わないわけ、自分の尺度で他人を評価し、あ、自分のものさしにはあなたを測れないっすね(だからすごかったり逆説的にすごくなかったり)みたいな態度とってるってことだからな!!!!!何でものさしで測ったことを伝えてくるんだよ、神様か?いや君には自分のものさしすら見えていないのだろう、もし見えていたら測る仕事に就いてくれ、測量とかなんか。