淡々

久しぶりの日記。

この間どう過ごしていたかというと、

ふんわり自分らしく日々過ごしていました。

嫌なことも、いいことも、同じくらいあって

誠実なだけでは過ごせないこともあって

というのも、大人になればなるほど極端な整理の仕方はできないからです。

でもそれがいいな、と思うのです。

変わったのは、自分について考える時間が減ったということです。

この数年間、毎朝目が覚めることに泣きそうになりながら、

自分が生きていてはいけないと何度も思い、

苦しさのなかでしか生きられなかったのに、

今は自分の持つ苦しみが少なくなってもなんとも思いません。

それで、ほかの人と過ごす時間が作れるようになりました。

そのなかでも色々思うことはあり、いやでもわずらわしく思ってはいけないよな...なんて

おこがましいことを思うこともあります。

来月に向けて走ろう。

変化の罪悪感

自分が正気を失う寸前の罪悪感を、一定の頻度で得られないと生きていけなかったのです。

6年間。

PTSD的症状が、癒えてきた気がします。

毎日自分が苦しみを味わっていなければという強迫観念がなくなりました。

そして発作的に息ができなくなることも。

いま、自分が幸せか不幸かなんてほとんど気にせずに生きています。

とてつもない幸せなことです。

随分苦しみました。そしてたくさんの人に嫌な思いをさせてしまった。

 

カウンセリングの先生はとても喜んでくれたけれど、

「その変化に対して、罪悪感はありますか?」と言われた。

 

ああそうです、わたしはわたし自身でかせていた罪が本当はなかったと知って急に楽になってしまった、生きていて心から楽しいと感じ、そう思うことに何の疑問も抱かず、いままでの自分で作り上げてきた地獄を簡単に手放して、何にもなかったかのようにのうのうと陽の光を浴びている、罪悪感がまったくないのだ、わたしの気持ちは何だったのだろう、生きていて教育を受けていて涙が出るほど嬉しかった、しかし気力は全くなかった、ふさぎこんではお酒や処方薬を多く飲み、そして自分では死ぬことができなかった、両親が悲しむという理由はわたしがただ死にたくないことの言い訳だったのかもしれない、

 

ちがうんだ、本当に言いたいことは、わたしはもう修復不可能だと思っていた、なのに自分で実感できてしまったのです、きっと立ち直れたのです

カラカラでも、満ち溢れていても

人間は何度もくりかえして生きたりはできません。 そして、何世紀にもわたって生きることもありません。 それほどたくさんの時間を配られちゃいないのです。 わりと早めに死んじゃったりするのです。 

 

糸井重里さんのことば。

どんなときにでも、生きる勇気にもなることばを紡いでいる人だなあと思う。

 

 

 

祖母は、平均寿命を超えて、どんどん幼くなっていくように見えます。

しかし、ただただ愛おしいのです。

人によって、もっと若くしてなくなる方も多いなか、

実家に帰れば、すぐそばに温もりを感じることが、嬉しいのです。

そして、それはわたしの原動力にもなっています。

そばにいつもいられるわけでもないから、

少し寂しく思います。

 

もし、失ったらなんてことは考えないようにして。

 

祖母が言った、「あなたは希望だ」ということばを噛み締めながら、

わたしはやりたいことを続けて生きていこうと思います。

弱さってなんだろう?

先日、「君は弱すぎる」と言われました。

たしかにその通りです。

いままで、自分がしてきたことを人のせいにしたことは

数え切れないほどあります。

理想の中で、守られた世界で生きてきたわたしが、

その中にいられなくなったとき、

絶望に陥り、その世界の矛盾さに屈し、

わたしは果たしてこの先に生きてゆくことができるだろうか、と

考えても考えても答えの出ないことばかりに

思いを巡らせていました。

それで身についたのは、「人に頼る」ということでした。

自分の境遇を泣いてくれる人は沢山いました。

必死で支えてくれる人も沢山いました。

そして、それに自分は救われてきたのです。

 

...一体弱さとはなんだろう?

この世で一番弱く無力である人間は、産まれたばかりの赤ちゃん?

でも、考えてみると、赤ちゃんほど弱くない存在はいないのではないか。。。

弱さ、弱さ、弱さ...

 

考えているうちに、よくわからなくなって、

弱くていいのではないかと

いつも思ってしまいます。

理想のこと

あのね、いままで読んでいた本から、

それから、友人たちにもらった大切な言葉を、

心の中でつぶやくことがクセになっています。

友人が教えてくれた、

「あなたのことを傷つけることができるのはあなたしかいない。」

というのはある経済学者の言葉らしいのですが、

その言葉自体に傷つき、反感を覚えながらも、

救われてきました。

正しい、正しくないというのは論ではなく、

自分にとってどう感じるか、消化していくかが重要なのですね。

勿論この言葉は、わたしはいつも反発したくなるのですが

(それは刺激に対しての反応は自分で取れる、ということで、その刺激には傷つく以外の感情も入ると思うから)

それでもショックなことがあるとブツブツと唱えていたりします。

梅の香り

眠れない日々は続いていますが、まあ、のんびり行こうかね、という気持ちで受け入れています。

あさ、覚め続けている目を少し擦りながら、近所の公園を散歩していました。

梅の花はもう満開で、散り始めています。

傍に寄ってみると、思いがけず、甘い香りがしました。

梅の花って、結構甘い香りがするのですね。

こんな香りなんだと初めて気がついて、命を感じてなんとも言えぬ感動を覚えました。

 

ずっと自分を呪いながら生きてきました。

両親が納得するような理由の死を、探し求めていた気がします。

でも、本当は生き続けていたかったから、いまもここにいるのです。

わたしは生きるために綺麗事をはくことも、罪悪感を得るための行動も、もう必要ありません。

自分の未来を思い描いて、たまらなく胸が躍り、そして少し目眩がします。

 

嫌いっていいな

わたしが嫌いな人がいるように(そんな人は著名人でほとんどわたしのことを知らないけれど)、わたしのことを嫌いな人はいます。

というか、人に会った時に嫌われることのほうが多いのではないか。

わたしは大体のことに関して、気を使わないからです。

いつの日か、初めて誰にも嫌われたくない人の気持ちがわかって、

それは、大勢多数の人のことが好きなんだなあ、失いたくないと思っているからなんだなあ、

なんて思ったのですが、それ以来、

わたしはどこへ行っても話せなくなって、

話せたとしても、気持ちの悪い作り笑いを浮かべながら

ボソボソと、なるべく人の記憶に残らないように心がけながら生活をしていました。

結果、変わらなかったような、もしかしたら前のわたしのほうが

人はいい印象を持ったかなあ、今では思います。

 

そして、わたしはある出来事以降、

前みたいに話せるようになりました。

で、嫌いだなあって思われてもいいやあって。

だって、それが多様性でしょう。

みんな少しずつ同じで、違くて、好きで、嫌いでって、

とってもいいなあ。