2019/02/20 傷つくということ

最近みた映画は『ナディアの誓い』『ライ麦畑で出会ったら』『500ページの夢の束』『バジュランギおじさんと、小さな迷子』。

 

昨日は性犯罪や性教育に関心のある大好きな女性とご飯に行った。

それで、そういう取り組みをしている人のグループに招待してもらった。

お話ししていて「あなただからできることがある、わたしには無理だけど。」と言われた。

わたしだからできることなのだろうか。わたしは褒められるような素行ではない。

何度か自分自身の名前で活動を試みようとしたけれど、外部からの攻撃を恐れて断念している。活動を続ける自信もない。

そういうなか、『ナディアの誓い』をみた。彼女の著書は『わたしで最後にするために』だ。

彼女は田舎で生まれ、農家として育ち、貧乏な時代もあったがずっと村で生きていたいと思い続けてきた人だけれど、ある日ISによって自分たちの民族が虐殺され、暴行の日々のなかで必死に脱出した。ISを公の場でさばけるようにしてほしいと訴え続けてきた。彼女の著書を少しずつ読んでいるが、村での暮らしのことが細かく書いてあり、華やかではないが美しい日々の幸せを宝のように感じた。雨が降ると部屋がびしょびしょになること。夏は暑いので屋根に登って眠ること。もっといい家に住みたくて家族でお金をためていたこと。

彼女の人生を考える。「やっぱりもうだめ」と言っては「やらなくては」と奮起していて、わたしはどうするのだろうと考えた。

 

 

 

わたしだからできることなのだろうか、と考える。

答えはできない、だ。

でも、

長く続いた地獄のような日々を抜け出して、ひとり。

この数年間人と極力関わらないようにしてきた。だって、楽だから。人といるのは疲れる。面倒になってしまった。

きっともう自分がこれ以上傷つくのを恐れているから、ある一部の感情がなくなってしまったように自分のなかに抑え込んでいるのだろう。

わたしは人一倍傷つくのが怖くなってしまったんだと思う。

 

 

わたしの、傷つきたくない、という意味は、例えばお互いに好きでいたのに急に相手が自分のことを好きでなくなったことによる悲しみのことではない。

 

大好きな人に不幸があったときが一番傷つくのだ。

だから人のことを好きになりたくない。好きになりたくないから人間関係を広げようとしない。

自分の課題と他人の課題は分けて考える必要がある。自分にできることを考えないといけない。それがとても難しくて、自分の課題にしてしまう傾向がある。

 

楽なことをするのは悪いことではない。

諦めたら、楽になった。

考えないから苦しくもならないし、行動しないから誰にもあわない。

でもいろんなことを諦めて諦めて諦めた先には何もなかった。

そうした日々を重ねるうちに、ぼんやりとわたしの人生はもう終わったのだと思うようになっていた。何もない最低限の日々。虚しくはあるけれど、それ以外は何もない。

死にたいではなく、はやく人生が終わりますように。

誘われたら友達とご飯に行く。だんだんその頻度が高くなってきた。でも安心できる、だって長い付き合いだから。

そしたら、みんな前に進んでた。同い年の友人なんて、舞台の演出家になってた。昨日の彼女は自分にできることを模索している。みんな何かに意義を見出して、行動してる。

 

そうか。諦めちゃだめなこともあったのか。

思い出さないと。自分の人生を自分で忘れないようにしないと。

風が吹いている。見えないけれど感じなければ。

木々が揺れている。葉っぱの色の違いを見なければ。

アリが地面を這っていて、わたしに登ってくるときの喜びを思い出そう。

 

今まで諦めてきたことを、少しずつ望んでみようと思う。

いつか勇敢でありたいと言ったわたしに、またなるために。