許すということ 人の言葉を借りて

お隣が寝かせてくれなかったぜ

諦めました

 

日の昇る前におはよう

あ、少しずつ空が明るくなってきた

カーテン開けよう

 

眠れないあいだに

じぶんがこれまでしてきた嫌なことがフラッシュバックしてきていた

あのさ、嫌なことをされるより、してしまう方が思い出したときに苦しいよね

ただ持ち続けることしかさせてもらえない

自分の罪を自分で許すことはできない

 

許せないものがあるように

わたしがしてきた許されないこともある

 

 

 

 

 

 

”自分が許されたかったら人をも許せというのは馴れ合いの取引である”

”ありもしない解決のために、自分の基準を変えて、加害者の行為を是認せよという意見は道徳的批判をされるべきである”

”許すことはそんなに正しいことだろうか?理解し許すということが”

”許しの思想は都合の悪い事実の隠蔽の上に成り立つ無責任で欺瞞的な思想である”

ーーー『心はなぜ苦しむのか』岸田秀

 

岸田秀氏は心理学や精神分析学者。

これは1999年に発行された本で、岸田秀氏と友人の編集者の対談で、2人ともうつ病神経症の経験があって、それがどういうものだったのかを可能な限り解き明かしていくという内容。最後の章には、岸田秀氏が自分が病気になった原因の一つに母親との関係をあげる。このときの対談がとてもとても考えさせられるものだった。この本はとにかくわかりやすくて、病気ではない人が精神病や神経症のことを知るためにはとても、、言い方にしっくりこないけれど、面白い。とくにうつ病は、生涯発症率15人に1人だから、なる前に。なんてね。

わたしはとくに「許す」ということの言葉の意味についてとても考えた、言葉に無意識的に付属される良し悪しをなんとなく持っていたということに気がついて、少し寝込んだもの。

 

まとまらなくなったけど

本当に、許した分だけ許されるなんて絶対におかしいよねえ

だから、せめて忘れないように

つづき

ああ、でも、せめて、美しくみえるよう、生きなくてはと思うよ

 

いつか、ふとした瞬間に、自分のおこないで誰かが救われることがありますように

 

そんなことを目的にしてはいけないのだけれど

 

はじめて会った人なのに、その人の波長が

めから、はなから、みみから、

どこかで感じるものから、

伝わって、

涙が溢れそうになって、

いま生きていることが嬉しいとおもったことがある

ほんの一瞬でね

真正面から目を見つめられたとき。

もらった名刺はベットに置いといて、寝る前にいつも見るのさあ

するとそのときのこと、思い出すから

 

うん、うん、

寝たら明日も起きよう

 

おやすみ、あたたかくして

 

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なんにん

毎日毎日別人のように過ごしている気がします

昨日は、課題の提出で胃がキリキリして

でも、多分この間先生がボロカスに言いすぎた感を自分で反省されたようで(そんなことされなくていいのに)

なぜか「よくがんばりました」と言われました

でもね、ちゃんと分かっている

まえに(今の君にしては)がくっついていたこと

自分の技術でできないことをやろうとするのをやめて

ちゃんと型にはまったやつにしたの

つまんなくなったけど

自分にはこれがせいいいっぱいいいい

 

うん

 

うにょんぐにょんうにゃうにゃりというきぶんです

 

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* カミーユ・クローデル #唐突に始まる #画力成長日記

Megumi Babaさん(@megumibimugem)が投稿した写真 -

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え、なぜかちゃんと反映されとらん

まあいいか

 

はあ

 

少しつかれました

自分が多すぎるなあ

まとまらない

世界を正しく認識しようとすると

世界を正しく認識すると絶望すると思うんです。

今も、将来も、とても自分たちで解決し得ない問題が多いです。

認めたくないけれど、複雑化した社会の問題は、恐らく人類が生きている間解決しないものもたくさんあります。

今年に入って、絶望の目を持った人に数人会いました。

一人の人は、あまりにも深い暗い目をしていて、綺麗と思ったくらい。

ついこの間、インターネット上における”ネトウヨ”の割合についての論文を見ました。

その人に、そういう人はどれくらいいると思うか聞いたところ、90%と言っていました。

もっとも、これは極端なケースで、わたしが聞いた人の多くは40〜50%程度と言っていました。

しかし、その結果によると、ネトウヨの割合は1%だったそうです。

どうネトウヨと定義するかにもよるかもしれませんが、私たちにとってそうした強い刺激になるものは影響力を持ち、あたかも大勢のように錯覚させられているということが分かりました。

 

わたしは、自分を守る為にニュースフリー、ニュースを見ることをやめました。

そのおかげで気分の落ち込みは少なくなりましたし、良いことのほうがたくさんあります。

ただ、知らないということの恥と恐怖があって、もう少し調整してみなければいけないとは思い始めています。

きちんと把握していないことにも問題はあるかもしれないと思うけれど、そこで自分が暗くなってしまうよりかはいいと思うのです。

 

わたしが考え、周囲の人にも聞いた結果の数少ないデータなのですが、おそらく「世界を正しく(という言葉が正確だとは思わないけれど)認識しよう」としている人の考える世界よりも、「世界はもう少し素敵である」のかもしれません。

全ての人が、世界の認識の仕方が違うのだから。

自分の思うことはすぐ忘れる

世界が、空気すらもキラキラして見えるときがあります。

「ピアノを弾くときは、空気に色をつけるようにしなさい」

これは、昔ピアノを習っていた時に先生が言った言葉で、一番印象的な言葉です。

たしかに、空気には色があるようです。

目に見える形であれば、物質そのものが光によって変化して見えます。

子どものことに、児童館の部屋で、みんなで地べたに体育すわりしながらみた映画は何だったのか覚えてないけれど、映写機の光が、空気中の埃や塵が舞っている姿を映し出したことは覚えています。

真っ白のようで、周りはキラキラした黄金の色のようでした。

空気は、光は当然、ものにたいしても影響されると思います。

朝、顔を洗うときに自分の顔を見ると、からだの状態がまとわりつく空気でわかるような気がします。

 

空気についてもっと考えたい。

風が吹くたびに不思議な感覚を覚えます。

二十歳になる前に書いた日記

課題の途中ですが、数年前に書いた日記が個人的にグッときたので、投稿します。

こういう自分がいたから、今全然がんばってないと思うし、そして今もいろんなことがあって、わりとハードモードだけれど。 

誤字脱字もそのままに。

当時はよく未来の笑っている自分を思い描いては、自分を抱きしめていました。

 

 

 

 

 

_____

ずーっと、ほんとうに、ウー、苦しい、死にたいという10代でした。

今までの私を振り返ると、今の私だったら堪えられないと思ってしまうことがいくつもあって、ああ、今の私じゃなくて、当時が過去の自分でよかったと思います。当時は役者という向かって突き進みまくっていたので何があってもギリギリで生きてこれたけれど、夢がなかったら絶対自我失ってました。下手したら死んでた思い出がありすぎて、もうやめてくれ、ほんとうに勘弁してくれ。と思いました。辛すぎて、周りは覚えているのに、記憶が一切無い出来事もあります。そして何より嫌いだった「嫉妬」という感情を感じることを拒否し続けた結果、競争心も失いました。今でも感じることが出来ません。当時の自分は、何が正しいかもわからない上に、注意力や警戒心が全くない子供でした。そのせいで大人から酷いことをされて、仕返しに沢山の人を傷つけました。ごめんなさい。

 

大学に入ってからは、映画の雑誌に携わったり、色んなイベントでMCをさせていただいたり、とにかく映画のえの字がつくものには何でも参加をする生活でした。そしてリバ邸六本木に住んで、旅をしたり、自分でホームパーティーを開いてみたり、いろんな所に連れ出してくれる仲間に出会えたり、何より何百人という素晴らしい人に出会えたことは、ここに住まなければできなかった経験だと思います。

 

昔は、人に影響を与えるために様々な活動をしておりましたが、今はどうやったら継続的な平和を得られるかばかり模索しております。無理くり変わろうとか、しなくていいんだよ。皆んなそのままでいいんだよ、生きてるだけでいいんだよ。二十歳になる前に、こんなことを言うのはさすがに早すぎる気がしますが、もう十分すぎるほど傷を負った気がします。そして、周りにも負わせすぎてしまったように感じます。

 

芝居をしていた時の目標は、素晴らしい役者になるために何もかも犠牲にする!でした。そしてそのために負った傷の後遺症と今後一生付き合うはめになります。

芝居をやめた時は、二十歳までは、必ず生きよう。→達成!

当時よりも目標は低いけれど、当分の目標は、自然な生活で健康な精神を持って、人に寄り添って普通に生きたいです。優しく、清らかになりたいので、そのために努力をします。やりたいこともたくさんあります。夢も大きくはないけれど、沢山あります。

 

私、大人になれると思ってませんでした。

こんなにどうしようもない私を、生涯親友のはる、きっと一番しんどかった時期ずっと支えてくれた佳穂ちゃん、泥沼生活から救ってくれた糸半のマスター、高校生活で本当に迷惑しかかけなかった会ったら土下座して謝りたいなかじーず(という最強グループがありました)、大学のさとみやモディやあー様もとい仲良くしてくれるっていうか喋ってくれる人、MBP編集スタッフの皆様、リバ邸のイオさんや皆様、溺愛しているメガネ、アッ、書ききれない!あと私の大切な両親と、姉とか親戚とか…!

 

 

 

 

十八の時まで、自分は醜いから、幸せになれない人間だと思っていました。生きててずっと辛かったし、死にたいとずっと思ってた。

 

中学二年生の頃に始めた芝居は、私に魂の使い方を教えてくれ、朝学校に登校する時さえも、今までは気づくことのなかった道端の雑草を美しいと思ったし、毛穴から空気の冷たさを感じて今日を過ごすことに胸が高鳴った。

 

誰でもそうだけれど、生き方なんて何一つ分からなかった。必死に売れることを考え、媚びて、そして嫌われました。周りの大人が一気に冷たくなった。焦って芝居にのめり込む内に、一人で売り込みに行くようになりました。

 

私が15歳の時、何もしないからとホテルに連れ込まれました。疑うことすら知らないのうのうと育った少女は、お決まり文句なんて、そんなこと知るわけなかった。

サポートしてあげる、40代の俺でも君っていける?

拒否したら激怒して罵倒されるし、バイト先まで来てしつこく付け回されたり。そんな大人が数えきれないほどいたので、大人はみんなそうだと思い込みました。

自分が汚れた気がして、生きてる価値なんて分からなくなりました。苦しくて苦しくて苦しくて、胸を掻きむしって早くこの状況に慣れるように自分を言い聞かせました。だって、私芝居で、ちゃんとした役をもらいたい。演じることこそ人生で、天職で、私を輝かせるものでした。

 

声もこのままじゃ女優になれないって、沢山努力したけれどダメで、一番やってはいけないことをして声を枯らしました。

 

友達が困って頼ってきてくれる時は、この人は私が何を言ったら感動するだろうと思いながらなぐさめていました。そんなことをしていると、自分の中に色んな人がいるような感覚になって、色んな人が出てくるのを自分で抑えられなくなりました。支離滅裂なことをずっと言い続けました。

 

そして全てが憎くなりました。こんなになっているのに私に向き合ってくれない両親も、大人も、男の人も。

 

でもその度に友達が、大人が、男の人が、救ってくれました。私があまりにもどうしようもなかったから、疎遠になってしまった人もいるけれど、支えていただいた方一人として全部全部忘れていません。

 

そして恩師に出会い、ググ、と泥沼の底から引き上げてくれました。

 

怠惰な生活を正すことはとても難しかった。ちゃんとした当たり前の生活を送ることすら当時の自分はできていませんでした。

 

今はとても幸せで落ち着いた生活を送っています。完璧にはいかないし、まだまだです。たまに自分ではなくなった気がして、正しくないことをしてしまい、苦しくてやっぱりダメだ、とか思ってしまうけど。もう誰も恨んでなんかいないし、むしろ申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

ここまで来るのに、どれだけの人が助けてくれたか。どれだけの人を嫌な気持ちにさせてしまったか。

 

沢山の思いが体じゅうでうごめいていて、簡単な言葉しか出ません。

 

私は、いつでも子どもに胸を張れるような生き方をしたいです。

ありがとう、本当にありがとう。ごめんなさい。これからも迷惑をかけてしまうかもしれないけれど、私は今まで以上に人のことを思いやっていきます。自分のやれることを精一杯やります。

ようやく、二十歳になりました。二十歳にさせてくれてありがとう。