2018/05/15 旅行にて①

5月14日から1泊、知人が熱海に連れて行ってくれた。

東京駅で待ち合わせをしたら、新幹線の切符を買っていてくれて、2日の間に一銭も出させてくれなかった。今の状況では旅行に行くお金はないことを察してくれていて、出す前に全部支払いを済ませていてくれた。

山の上の静かな宿で、体の傷をわかってくれているのでわざわざ部屋に露天風呂が付いているところにしてくれていた。

 

文字に起こすとどうしても軽くなってしまうけれど、ものや体験だけではなく思いやりや優しさとともに贈ってくれているのがわかったので帰ってからじんわりと暖かい涙が出た。

 

去年は錯乱することが多く、気の許す相手の何人かには暴走する自分を止められないまま乖離してしまうことがあった。錯乱の最中の自分自身が乖離しているとわかったのは最近で、誰かの記憶みたいにしか把握できなくて、自分で行動を制限できなくなっていたのだと思う。

わたしあなたの首絞めてしまった、頭突きをくらわせてしまったこともある、血が出ている写真を送ってしまった、苦しくて壁に頭を打ち付けていたのも見せてしまった、薬の飲み過ぎで動けなくなっているのを見せてしまった、何度泣いたかもわからない。それでもあなたは「普通でしょ」と真顔で言ってのけて、今の今まで態度を変えなかった...

 

何か自分の中が少しずつ正しい方向に変わっていくエネルギーのもとというものなのだろうか、誰かに何かを差し出すことは喜びの反面とても疲れるもので、もしかしたら自分が傷つくかもしれないことを考えると誰にもかれにもあげられるものではない。

でもたまに神様みたいにポンと惜しげも無く配れる人と遭う(またはそういう機会にばったり遭う)。

周りに残ってくれている人たちはそんなことを簡単にやってのける。簡単じゃないはずだけれどもそう見える。いつもすごいと思っている。

返しても返してもきっと一生かかっても返しきれないものをいろんな人からもらっている。

良くなっていく要素の大元だった。自分じゃない人たちが自分のために自分の体を良くしてくれている感じ。その人たちの優しさや犠牲によって少しずつ癒えていっているのを感じる。胸がジンジンする。熱々のフライパンにバターをのせたときのジュッとする感じ。幸せの溜息が出る。

一生ものの傷を負ったと思っていたけれど、そうじゃなかったかもしれない。