お終いの日の覚悟
自分のための文章
ザックリとした目標が立ってきた。
今年も休学できて良かった。まだまだ問題が山積みで、
でも改善出来る見込みがあるから。
冷静に客観的に自分のことを見られるようになった。
その度に一歩間違えていれば自分はもういないなどと思うし、ここまでよく回復した。
分かったのは抑え込めるものだと勘違いしていた潜在的なストレスがキャパオーバーし、自分が嫌だったことは今でも消えていなかったということ。
そして今まで培ってきた自分の思考回路と判断基準では今後生きていくことが難しいと身体が判断したこと。
潜在的なストレスは数年かけて勝手に薄まっていく。
あんなに許せなかった人たち、本当に殺したくてでも殺せなくて他に被害が出るくらいならわたしがそばにいようと決心した日、そしていつか本当に愛することが出来たらそれが最も高尚な勝利であると思い執着したけれど、あまりにも気が狂いそうで逃げ出してしまった日のこと、など...
もう何とも思わないなんて書いていた時もあったけれどしんどくて仕方がなかった。
でも今は本当に何も思わない。
許すことの意味をずっと考え続けてきた。
許しはしないこともある。許されることではない。
愛することのなかに許すことはあるけれど
許すこと=愛することではない。
許すことは美徳かもしれないが、ある範疇の出来事に限定される話だ。
ただ、恨み続けることに意味は無い。
もう全部終わった。
もう搾取されるのもするのも疲れた。
いつか与えられることができるようになりたい。
生きていることが不思議だ。
全身の痛みと鬱の嵐のなかで、生きたいと思うことなんて出来なかったのに、生きているのが不思議だ。
そして今死にたくないことも不思議だ。
身体が前みたいに動くようになりつつあるからといって、根本にある問題を見つめ考え続けなければ元に戻るような気がする。
死にたいという気持ちの大きな要因は、誰かにされたことではなく、してしまったことの罪悪感だった。
そして同じように醜い人たちが、私たちは清廉潔白ですよ、と澄ました顔をして、自分たちは幸せになる権利があると当たり前に思い込んでいるのを見ると気が狂いそうになった。さらに、自分はともかく人のことまで醜いと判断し、軽蔑している自分に落胆した。
全部ひっくるめて生きていかねばと思う。
今日はこれができたとか、明るく書いてある文章の時のほうがよっぽど辛くていつも泣いていた。身体が動かなくて上手く息すらできず、超自我・自我・エスのうちの自我がきちんと機能しなくなった時の恐怖はすさまじいものだった。風呂も入れず、ご飯も作れず、味もよく分からず、掃除もできず、自分が好きだった映画や小説すら受け付けなくなり、自分の人生で大切にしてきたものとか、色鮮やかだったものが真っ暗で何もわからなくなった。
囚われて悪夢のなかにいるけれど、それは過去のことで、ただの残像にすぎない。
そんな残り物で自分の今後の全てを決定されたらたまったものではない。
良くなることは難しいし、
自分のなかで過去の意味づけを変更するには多くの時間がかかる。
鍵を見つけたのでお終いの日の覚悟ができた、ような気がする。