2018/07/02 セラピスト

PTSDという名前に固執している訳ではないけれど、どの本にも”カウンセリングが必要”と書いてあった。

 

カウンセリングを受けようと努力したことがある。3人の臨床心理士のかたにお世話になったが、わたしはどうしてもうまくいかなかった。

臨床心理士という職業は難しい。ほとんど傾聴しかしてはいけないし、それでクライアント(患者)をどうやって治していくのだろうか、わたしにはよくわからない。(自分の考えを述べると洗脳に繋がる恐れがあるのでしてはいけないらしい。)

余談だけれど、「わたしにはあなたをきちんとみてあげられない」と言われたことがある。

 

...そうだ、わたしの苦しみも、わたしの過去も、誰に背負ってもらう訳ではなかった。それはそうした職業の人にとっても負担になるくらい重かったのだ。

当時のわたしはそう思った。そして、”わたしの過去が誰かを傷つけるのならわたしはこのままでいい”と心を閉ざした。

 

それでも、職業としてではなく友人として、勝手にわたしを助けてくれた沢山の人たちがいたから、ここまでこれた。

 

何もかもうまく回り始めて、全てがきっと繋がっていると思った。

わたしの過去はただの過去に過ぎない。その痛みや苦しみは過ぎ去り、残っているのはただ他の記憶についての喜びだけ。

立ち直った。全て。そう思っていた。でも違った。

愛する友人の紹介で、ロシア出身のセラピストに出会った。

彼が気づかせてくれた。

彼はわたしをもっとよくしてくれるかもしれないと思っている。

 

この間公園で会ったとき、こう伝えた。

「わたしにとって誰かにとって当たり前の生活は当たり前ではありません。

上を見上げれば太陽があります。私たちは木陰にいますから、ここからみる太陽はキラキラ光っています。照らされている葉っぱは透けているようにもみえます。

風が吹いています。わたしの髪はなびく。木が揺れている。わたしはそれぞれの木の葉っぱの緑の色の違いがわかります。

太陽の木漏れ日で地面の土の色が変わる。アリが沢山いる。アリがわたしのつま先に登ってきます。

わたしはいまあなたとここにいて、生きています。

そのことを考えると胸がいっぱいになるんです。

わたしは十分すぎるほど傷を負いました。そして他の人を沢山傷つけた。どうしようもなくなってこれだけは約束したことがあります。それは”せめて自分の人生は自分で責任を取ろう”ということです。

 

これ以上、何を望もうというのですか。わたしはいま持っているものだけで十分です。」

 

彼はとても悲しそうな顔をした。

ほとんど無償でやってくれているようなものなのだ。

それからセラピーが始まったけれど、無理をし過ぎて動けなくなってしまった。

彼とは患者という関係ではなく、友人と生徒という関係。

立ち上がれなくなったわたしを彼はきつく抱きしめた。よくわたしは友人に対してハグもチークキスをするけれど、そういうものではないものだった。あんなにきつく抱きしめられたのは生まれてはじめてかもしれない。本当にわたしをよくしてくれようとしているのだと思った。

そして何日か考えた。

 

わたしはもう一歩、踏み出してみようと思う。

自分と向き合うことが残っている。わたしはもっとよくなれる。