2019/12/17 自戒

人が心を閉ざすようになるまでのプロセスを大学にいると毎年実感する。

警備員の方々は春になるとおそらく会社から「教員および学生一人一人に挨拶をしてください」と言われるようで、というかそれ以外考えられないくらい丁寧で頻繁に毎年挨拶をする。

一方で私たち学生のほとんどがそれを無視する。

「おはようございます」「お疲れ様です」という言葉を無視され続けると、やがて透明人間になったかのような、あるいは対等な人間として見られていないことに対する怒りに変わり、当たり前のように学生には声をかけることはなくなる。

自分(たち)が嫌われていくのを少しずつ感じる。

11月くらいになると、挨拶する私に対して彼ら彼女らの態度は三つに分かれる、私を認識し先に声をかける人と、声をかけると返してくる人と、声をかける私を認識しつつ何も反応しない人だ。

興味深いのは、私が利用している大学の出入り口三つのうち、より距離が近い二つの出入り口では何も反応がない人は存在せず、距離が遠く交通量が多い一つの出入り口で故意に無視されることが頻繁にある。

たまに挨拶をしても無視され、しかし目はこちらを凝視するといったこともある。

ちょっと落ち込むけれど、先に無視をした者は年の離れた成人前後の人間であり、彼ら彼女らは圧倒的数の暴力によって自分たちの存在を無視され続けている。

しかし学生の私には他の学生は態度が軟化する。

エレベーターやドア付近で生じる小さなやりとりで「ありがとうございます」「すみません」と言わなかったことや言われなかったことはほとんどない。

 

そうしたことにうんざりしている。些細な、小さなことだが普遍的なものを感じる。

私もまたそうした人たちと変わらない。

 

気がついたらまたアンチナタリズムと男性学の本と呼んでいたので、気分転換にタルコフスキーの『サクリファイス』を見た。

ラストシーンで太陰太極図がプリントされている羽織りものをアレクサンドルは着ている。

救いようもない醜さを知っているが、一方で尊い美しさを知っていることを忘れてはいけない。己の醜さを見つめ、それを培養しないように。