2020/12/20 DEAR IO

意図の意図

 

表現することについて考える。

おそらく誰もが自分に基づいたものからしか表現できないように、私もまたそうである。

では何を題材に扱ったら良いか。社会的意義を見出したかったら、セクシャルマイノリテ ィーか貧困層を。でもきっとそれは本質的なものをついていない気がする。

概ねそういうところで育ってきた。“労働者階級”的であるのに大学にいることが苦しかったりもした。私はスラム街のような場所で生活し、そこで終わろうとしたのに、もう少し人生に先があった。

自分の考えだけで臨んでここにいるのではない。もっと原始的な暮らし、 生きることを試されているような世界に生き、その世界しか見ずに終わりたかった。

今いるこの世界では生きることは前提条件として存在する。

そうは思わない私が、表面上その中にいることの意味を考える。

何かできるからここにいると思う。何かに考えさせられていると思う。

自分にできることを考えるけれど、私に何ができるだろう。

 

私みたいにあらゆるコミュニティの外にいる人間は、共通点を持たない人間は、たとえ這い上がってきたとしてもどの世界にも表面上のものでしか受け入れられなくなる。

でも後戻りはできない。その前のコミュニティには特異な人間として排除される。

その可視化が腕と脚にある傷だ。

ひとたびそれがあると知られた時、その人たちの世界から私はいなかったものとされる。

怖い、忌むべき、気持ちの悪いことだと思われるのは仕方のないことだ。

私がそうでなかったら、理解しようとすら思わない。

このことが一生ついてまわることに、たまに果てしのない絶望を覚える。

この思いを何度味わえばいいのだろう。傷は誇りとさえ思うけれど、周りはそうではなく、親しい人たちにも実はそうではなく、むしろ逆の意味を持つ。

誰もなぜそうなったのか聞いてはくれない。薬物に依存している人を救おうとしたこと、うまくいかなくて自らもその世界に染まってしまったこと、そこから逃れたくて、自分が生きることの罪深さを打ち消してくれる何かが欲しくて、自分を罰するために傷つけたこと。

そういうコミュニティにいることになったのは、昔夢があって、芝居をずっとしていたいという夢があって、追いかけるうちに、十五歳から数年前にかけて性的暴行を何度も何度も何人もから受けた続けたこと、そして夢を諦め、苦しさから一時的でも逃げる手段に走って、その先の人たちと自分を救うことができたらと思ったけれど、その先には何もなかった。

ソローが森の生活で序章に自身がいかに社会から受け入れられなかったかを⻑く書いて いる。読んだ当時は「そんなくだらないことにショックを覚えることはないのに」と思って いたけれど、今はそうは思わない。私が思うより、社会は、世間は、世論は、大切なものだ。 今までその枠外にいたから分からなかった。

 

途方に暮れている。でも取り組むべきことが見える。自分の傷をひた隠しにすることなく、 たとえ何度転んでもまた立ち上がろう。私の背負っているものは誰にも渡さない。私が背負っているものを他の人に背負ってほしいのではなく、未来に生きる人に自分が背負っているものと同じくらいのものを背負わせたくないのだ。

 

と、思っていたのだけれど、

 

実のところ、私はその先に待ち受けているもののほとんどを持っている。

一人ではない。 自分には不釣り合いとさえ思うような友人たちや親族や、それ以外の人々がいる。這い上がってきた先で受け入れられないことも勿論あるが、大抵の場合その世界に入ることを歓迎される。でもそうではない人、過去の自分のような人たちを知っている。自分がおくるかもしれなかった未来の意味が持つことと向き合い、テーマにすることで、受け取った人が何らかの希望的観測を持つものになれたらと願っている。

 

早朝、湖のほとりの傍らに立つとき、あの瑞々しい空気に包まれるとき、劇的ではないけ れど、静かに、ひっそりと、私たちが何か確信するように、何か覚悟をするように。

本当は、 誰にもあなたの尊厳を奪う権利はない。

そしてあなたがあなたの手によってあなたの尊厳を手放す必要もない。

繰り返されるように感じるけれど、同じではない、二度とない、

ひときわ特別な今日という日が始まることについて、

期待と希望を両手いっぱいに抱きしめ、緊張で身が引き締められますように。

そしてその先にあるものを、喜び、全身で受け止める権利があることを、

自らの判断で手放し無かったものとすることがありませんように。

そういったことを伝えるために、この先待ちうけるものを、

私自身の目で見つめつづけ、

聴き、感じ、考え、ひたむきな姿勢を持って、光の中を進んでゆきたい。