2021/07/15

ボルタンスキー氏が亡くなった。

インスタレーションの中で最も心にダイレクトにくるものがあったかただった。

そしてどの作品も好きだった。

彼が提示してくる死には嘘がないと思った。

ただそこにあったはずの命を時代を超えて感じた。

自分ではどうしようもないことに巻き込まれて死んでしまった沢山の人たちの顔を沢山見た。

 

ただそこに死がある

ひたすら簡素に、嘘偽りなく、事実が証拠として存在する

 

それが心地よかった。

 

 

この間の治療はいつもの半分くらいの時間で終わった。

危ない、と思ったらしい。

そういうことをちゃんと話してくれるから、安心する。

2週間に1回の頻度なのだけれど、治療の影響で1週間くらいは精神的に余裕がなくなっている。

気が立っている感じ。落ち着かず、身体が緊張しすぎて吐き気が酷い。

過去に引っ張られて酷い悪夢を見る。

またか、と思う。

先生と話している時には涙が出ない。

どこか人ごとに話して笑ってさえいる。

先生はショックを受けていて頭を抱えて「本当に大変だったね」と言う。

私が話すと先生は傷つくように見える。

そんな対話を通して自分の傷の深さを知る。

 

あ、今気づいたけれど、また自分を自分で傷つけていた。

どうして辛い過去を話しているのに笑っているんだろう。

笑える話ではないはずだ。

人ごとでもない。

自分がされたことだ。

絶対にされてはいけないことを私はされてきたのだ。

 

トラウマと向き合うとか言っておいて

自分の持つ傷から目を背けるために過去の自分を笑ってしまった。

 

きつい。

 

辛かったことを改めて辛かったと認めるのは辛い。

事実を認めるのは辛い。

それでも、辛かったことを辛かったと認めない未来は更なる辛さを呼んでくるだろう。

認知を曲げつづけた先にもあまり良い未来はないだろう。

 

ここ数年で立ち直りかたも、前を向き直すやりかたも身につけた。

うずくまって、座り直して、うつむいて、地面を見て、

自分の手のひらを見て、自分を触って、

前を向き直して、立ち上がって、歩く。

持てるだけ持って、片手は誰かのためにあけておく。

 

誰かが立ち上がれなくなったとき、隣にそっといる人になりたい。

その人がそうして欲しいとき、背中をさすれる人になりたい。

 

そのために頑張るのだ。

本当の意味で一人で歩けるようになるために頑張るのだ。

だから辛いことも向き合えるときに向き合う。

 

辛かった、悲しかった、寂しかった、助けてほしかった

苦しかった、死にたかった、消えたかった、もう何もかも嫌だった

恨んでいた、憎んでいた、惨めだった、地獄だった

 

でも、それは今ではない。

過ぎ去った過去で、でもだからといって笑って良いことでもない。

 

とうに腹は括ってあるのに、たまに緩んでしまうね。

さ、明日のためにおやすみ。